「美鶴っ!」
耳元で叫ばれて突然目が覚めた。だが、目を開いても、これが目覚めだと理解するまでに数秒。
すぐそばで、腰に手を当てた母が見下ろしている。化粧もバッチリ。
「もうっ、早く起きなさいよ。朝だよ。ドアノックされても全然気づかないんだから。この鈍感っ」
いつの間に眠ってしまったのだろう? しかも中途半端な時間に寝たため、ちょうど眠りが深くなるタイミングと重なってしまったのだ。
失敗した。
よりによって母に起こされるという失態を犯した自分を情けなく思いながら、美鶴は半身を起こす。
「朝ごはんって九時でしょう? もう五分前だよ」
「げっ」
慌ててベッドから飛び降り、着替えを持って洗面へ。だが、鳥が住んでいそうな髪の毛を見るや、風呂場へ飛び込んだ。
左の足首にズンッと鈍痛が走ったが、そんなことに構ってはいられない。
あぁ 下着どうしよう
服を脱ぎながら考えているところへドアをノックする音。
「はーい」
軽快な母の声と扉を開ける音に続いて、静かな声が響いた。
「朝食の準備ができております」
「あ、ありがとうっ」
「では――」
「待ってっ!」
後ろから叫ぶ声に詩織は振り返り、絶句した。
バスタオルを身体にグルグル巻きつけた美鶴が扉に飛びつく。
「あのっ カーディガンみたいな、ブラウスの上に着れるようなのってありません?」
噛み付かんばかりの勢いで尋ねられ、使用人と思われる女性は目をパチクリさせて息を呑む。
「あ、ありますけど」
「あ、すみません。貸していただき…たき…たけ……てけて………」
……舌噛んじゃった
「使い慣れない敬語なんてしゃべるからだ」
キっと目尻を吊り上げて振り返る娘の視線に、詩織はしれっとソッポを向く。
「………わかりました」
ようやく平静を取り戻した相手は静かに頭を垂れると、くるりと美鶴に背を向けた。
ホッと息をついて扉を閉める。改めて振り返ると、呆れたような母の顔。
「何? カーディガン? 寒いの?」
「ん… あぁ」
曖昧に答え、バスタオルをズルズルと引きずる。しかも頭には鳥の巣が………
「みっともないねぇ」
………サイアクだ。
腕を組みながら自分の背中を見つめる母の視線を感じて、美鶴の唇は屈辱感に震えた。
咄嗟のことで他に方法が思いつかなかったとは言え、まさかこんな醜態を晒すことになろうとは。
あの人、霞流さんにもバラすかな?
うーん こういうお屋敷務めの人って、やっぱちゃんと教育されてるだろうから、バラすとか笑いものにするなんてことはしないか?
学校の奴らみたいなのなら、やりかねないけどね。
ってかお母さん、下着どうする気?
あっ―――――っ! もう知らんっ!
ブツブツと考え込んでしまい、結局九時には間に合わなかった。
「アンタって、ホント常識知らないわね。アタシ達、泊めてもらってんのよっ」
エラそうな母の言葉を噛み締めながら、案内された場所へ行く。
「おはようございます」
とりあえず当たり障りのない言葉と共に開け放たれた扉を抜ける。
広々としたダイニングには、十人は余裕で座れるのではないかというテーブルが置かれ、真っ白なテーブルクロスの上には皿がきちんと並べられていた。
「ほえっ」
詩織は思わず声をあげそうになり、慌てて両手で口を覆う。
ダイニングテーブルの端、大迫親子が入ってきた入り口からは一番離れた部屋の奥で、人影がゆっくりと動く。
車椅子に手を乗せていた男性が、詩織の声に振り返った。
「あぁ」
そう言って軽く頭を下げ、車椅子の男性へ向かって身を曲げる。耳元で何か囁き、傍らに控えていた使用人らしき人に委ねて、車椅子から手を放した。
出入り口はもう一つあるようだ。車椅子は大迫親子の方へは向かってこず、そのまま部屋の奥から出て行った。
「おはようございます」
あらためて向き直った霞流慎二が、声をかけた。
「あ、おはようございます」
そう答えながらも、なんとなく視線は部屋の奥へ。その視線を感じて、霞流慎二は苦笑した。
「申し訳ありません。祖父は身体を壊しておりまして、耳も遠く、気の利いた話もできません」
「あ、別にいいです。こっちこそ、朝食を邪魔してしまったみたいで」
慌てて手を振る美鶴と詩織を、女性が席へ案内する。
「いえ、邪魔なんてとんでもない。今日は少し食事の進みが遅くて。本当ならもう済ませている時間なので…… あ、トーストでよろしいですか? ご飯にされます?」
「あ、パンでいいです。いいよね?」
美鶴の言葉に詩織はコクリと頷き、程なくして焼きたてのトーストに目玉焼きとベーコンが添えられて運ばれてきた。
マジ、ホテルみたいだ
テーブルマナーなんて全然わからないから、とりあえず三角に立っているナプキンを広げて膝に敷き、フォークとナイフで朝食と格闘する羽目になる。
ベーコンの相手をする姿があまりに滑稽だったのだろうか? 霞流がクスッと笑い、使用人に声をかける。だがナイフ使いに悪戦苦闘する美鶴も詩織も、そんな霞流には全く気づかなかった。
「どうぞ」
背後から声をかけられ振り仰ぐと、箸を手にした女性が優しく立っている。
「あっ ………ども」
少し小っ恥ずかしく思いながらも箸を受け取った。見ると、霞流がニコリと頷く。
バカにされたっ!
思わずカッと頭に血が昇る。だが、言い返す言葉が見つからない。なにより、ここで怒鳴り散らすのもかえって無様だ。
まぁ、貧乏人だってのはバレてるんだし、無理して見栄はる必要もないさ。
開き直ることで矜持を保たせる。が、ふと横を見ると、詩織の素手にはベーコンが。
お前はサルかっ!
美鶴があんぐりと口を開ける間にベーコンは詩織の口の中へ吸い込まれ、人差し指と親指をペロリと舐める彼女と視線がぶつかる。
「エヘッ」
エヘッ…… じゃないっ!
この光景の一部始終を霞流に見られていたのかと思うと、美鶴はもはや彼と視線を合わせることができなかった。渡された箸を手に、ひたすら朝食を口へ運ぶ。
――――――サイアクだっ!
知らぬ間に全身がプルプルと震える。
母が次にどのような醜態を曝け出すのか? そしてその時美鶴は、自制心を保っていられる自信が……… まったくない。
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